人を幸せにする家を造りたい ー
アンビエントホームを始めて四半世紀。
当時私が家造りを始めた理由はシンプルで、他に誰もこのような家を作っていなかったからです。正直言って個人的には、誰かが作ってくれていれば、それを買っておしまいだったかも知れません。
正しい高気密・高断熱による快適な居住性。
住む人と建てる場所に合わせた設計による住みやすさと耐久性。
経年変化に耐えうる素材とデザインによる、インテリアの心地良さ。
そしてこれらの要素を、プロが予算に合わせてマネージメントしてくれること。
私がそれまでの経験で今の日本の住宅に必要だと思った、これらの要素を全て兼ね備えた家造りをしている会社は、どこにも無かったのです。無いなら自分で作ればいい、と思ってアンビエントホームを始めました。そして今や、日本の家造りの品質はかなり向上してきました。しかしながら、我々の存在意義は未だ失われていないと考えています。「いい家を作る」ことの先にあるものが見えてきたからです。
ひとつは生活品質の向上が必要であることです。
人生で一番大切なものは何かと問われたら、私は迷わず「時間」と答えます。お金も重要ですが、全てではない。豪邸に住む大富豪も家をなくした難民も、時間だけは24時間平等に持っています。いつどこで、誰とどう過ごすことが自分にとっての幸福なのか。それによって不幸な大富豪も幸福な難民も、あり得るのです。ならば、私は今この瞬間死んでも後悔しない人生を送りたい。目的もなくただ我慢するだけの時間には意味はありません。好きな人と好きな場所で好きなことをする時間が、多ければ多いほど人は幸せだと思うのです。そう考えたときに、改めて今自分が作っているものは本当に人の役に立っているのかと突き詰めると、まだまだ未完成であると気づいたのです。
人生の幸福を大きく左右するのは、家そのものではなくて、そこで営む生活です。最初は器としての住宅の耐久性や居住性を良くして、経年変化に弱い新建材をなくして長持ちするインテリアにすれば、自分自身を含めたユーザーは幸せに暮らせるようになる、と考えていました。それは間違ってはいませんでしたが、それだけでは望むところにはたどり着けていなかったのです。生活において家はただのハコ、舞台装置の1つなのです。非常に大きなウエイトを占めるものですが、やはり生活全体を俯瞰してみたときには、ワンアイテムにすぎません。性能的に優れたハコを作っても、照明が用途に合っていなかったら、間に合わせの家具のままだったら、インテリアに合わないカーテンだったら、暮らしていくことは出来るけれども、住む人は本来手に入れられるはずのベストクオリティを見失ったまま、人生の貴重な時間が過ぎていくことになります。それでは「住む人を幸せにする家造り」という目的にたどり着けていない。我々は必ず家具や家電を使って生活しています。インテリアも含めて「家」なのです。
もうひとつ付け加えるなら、一戸建ての住宅には調和した庭が必要です。それは趣味でなくて「必要」なのです。「庭は住宅の衣服である」とは、イギリスの詩人でありデザイナーでもあったウィリアム・モリスの言葉ですが、つまり庭のない家はハダカの状態ということです。家は庭を伴って初めて「家庭」になるのです。ですから集合住宅は別として、一戸建ての家には庭は欠かせないアイテムなのです。
家を手がかりに、私たちはより多くの皆様に、高品質な「生活」を供給する会社になろうとしています。家だけでなく生活全体の質に関して、金額の多寡を問わず、プロとして予算に対してのベストバランスの配分を提示する。家を提供するだけでなく、そこに住む人の生活全体を視野に入れ、その生活品質を向上させるお手伝いをしたいのです。なぜならば家というハコだけでは、我々は生きていけないからです。
誰しも予算は有限ですから、知恵を使うところは値段ではなく、バランスなのです。予算内で、その人・その家族の生活にとってのベストバランスを探し出すのがプロとしての仕事なのです。家は人を幸せにする道具のひとつにすぎません。しかし賃貸でも持ち家でも、人はどこかに住まなければならない。皆、家という道具を使わざるを得ないのです。であるならばまずはきちんとした道具を提供したい。その上で行われる、ひとつひとつは些細な日々の暮らしこそが人の幸福であるならば、我々はここに高いクオリティをもたらすことであなたの人生を豊かにしたいのです。
そして、家の資産価値とは何かということ。
家はみんなで長く使われるべきものです。その為には奇をてらわず、その土地に合った造りで、ユーザーが永くより良い生活を送れるように、ロングスパンで20年30年住んでも飽きないしつらえでなければなりません。また、定期的にしかるべき手入れをすれば次の世代でも使える、普遍性のあるものでなければなりません。
家の資産価値を望むのならば、考えなければならないのはお金の話の前に、広く長い視点で見たときに、モノとして道具として、社会的資産、すなわち社会インフラの一部でありうる住宅であるか、ということです。自分が数十年住んだ後、自分の子孫であれば最高ですが、そうでなくても誰かが住みたいと思ってくれる家こそが、真に資産価値のある家です。代が変わっても誰かが住み継いで、そこで安心して幸福に暮らしている。永い間、当たり前のように身近にあって、普段は意識しないけれども家族の生活品質を守っている家。それはずっと静かに地域を守ってきた里山のような存在で、私たちはそういう家を提供したいのです。